加藤純一のせいでドラゴンクエストユアストーリーに没入できなかった
映画の面白さは没入度で決まると思っている。
映画を見る時は当たり前のことだが「これから映画を見るぞ」と思って映画を見るわけで
そう思うという事は映画を現実じゃなくて娯楽目的のお話として最初は捉えていることになる。
目が覚めて、現実の世界じゃなく映画の世界が眼前に広がっていて、
終わってみて初めて「ああ、これは映画だったんだ」と思うことはない。
映画は映画として意識して見る。
しかし面白い映画は映画だと分かっているのに、
いつの間にか現実と映画の垣根を越えて、
登場人物に感情移入して泣いたり笑ったり怒ったりしてしまう。
映画ではなく自分の体験のように、映画の登場人物に寄り添うようにその世界に没入することが出来る。
映画館もその没入度を上げるために劇場内を暗くして、人の動きを制限し、携帯電話や視聴マナーの注意喚起をする。
出来るだけ没入を阻害する外的要素を排除して観客がスクリーンに集中できる環境作りをしてくれている。
ここまで視聴する環境を整えてもらって、
そこから没入できるかどうかは自分と映画との相性だけ。
結果から言えばドラゴンクエストユアストーリーと僕の相性はすこぶる悪かった。
加藤純一のせいで、だ。
ここで言っておきたいが僕は加藤純一のことは好きだ。
加藤純一の配信はかなりの頻度で見ているし、
いつからかテレビになり替わって僕の家では何かしら加藤純一の動画が再生されているようになった。
加藤純一はドラゴンクエストのゲーム実況動画を多く配信している。
僕もそのほとんどを見てきた。
そしてたくさん笑わせてもらった。
その記憶が今回の映画への没入をかなり邪魔した。
ドラゴンクエストのメインテーマソングといえば「序曲」が挙げられると思うが、
加藤純一は毎回この「序曲」が流れるとおおよそ常人では考えられない奇声を発する。
奇声を発した後は「序曲」の管楽器を声で演奏し、極めつけは音楽に合わせてオリジナルの歌詞をつけて歌って締める。
これを何度も聞いてきたため「序曲」が流れると加藤純一のその一連の流れが想起されてしまう体になってしまった。
ドラゴンクエストユアストーリーでは「序曲」が劇中に何度かかかる。多分2,3回は流れたんじゃないだろうか。
その度に映画から加藤純一に引き戻される。
没入どころではない。
主人公が結婚相手を選ぶ時だってそうだ。
加藤純一はドラクエ5も実況プレイとして配信している。
加藤純一はゲーム内でビアンカかフローラかを選ぶ大切な場面でも
ビアンカを「フローラへプロポーズしに行く場面に付いていき、主人公の幼馴染としてフローラをマウンティングする女」のように実況している。
劇中でもビアンカを連れてフローラにプロポーズをしに行くシーンはしっかりと描かれている。
普通は恋愛映画を見た時のような何ともいえないくすぐったい気持ちになるところなのだが、思い起こされたのは加藤純一。
加藤純一が「プロポーズしに行くのに母親同伴みたいな気まずさ」と言っていたが
劇中でも主人公がプロポーズに着いてきて色々とおせっかいを焼くビアンカに対して「母親じゃないんだから」と言っていることからも加藤純一を思い出すには十分だった。
映画に没入しようとするたびに加藤純一が思い出されてしまい、入り込むことなく映画が終わってしまった。
これはドラゴンクエストユアストーリーの映画レビューじゃないです。
加藤純一がいかに印象に残るかを書いた記事です。