粗品は要らないと言ってくれ

私の会社は毎年、夏が過ぎると、日頃お世話になっている会社に対して粗品を渡す。

恒例のことなので粗品は毎年統一してわが社の社名入りの手帳にしている。

 

手帳は渡したときの反応は両極端だ。

例えば粗品でありがちなボールペンであれば「とりあえず、あれば使うだろう」とキープしておく人は多いと思う。

使う場面も多いため重宝とまではいかないが、ある程度、貰ってありがたいものという反応になる。

 

しかし手帳になると

「使う人は絶対に欲しいし、使わない人は一切要らない」という反応になる。

そもそも紙の手帳を使う人が減ってきていることに加えて、

紙の手帳を使う人でも自分の気に入ったもの、毎年使っている同じ型のシリーズを使いたいと思う方が多いので、

「毎年、私の会社の粗品の手帳を使う人」に限定されて喜ばれる。

わが社の粗品とはそういうものなのだ。

 

先日、取引先の会社に訪問した。

片道5時間かけての大移動だ。

大変だが、この会社の社内の様々な事の確認のために必要な仕事だし、

その確認は向こうの仕事にとっても大事だ。

この会社に行くことはそれこそ2,3か月前から決まっていた。

当日の移動手段から宿泊場所の手配まですべて向こうの会社が用意してくれた。

 

ところで、この会社のオフィスの一角には「お持ち帰りボックス」というものが置かれている。

会社が貰った細々したものや、まだ使えるが会社では使わなくなった備品等をここに入れ、欲しい人が好きに持って帰るというシステムだ。

ボックスの前面には「どなたでもご自由にお持ち帰りください」と書いてある。

実際、過去に私が持ち込んだパソコンのテンキーの調子が悪かった時も、このボックス内にあったテンキーを借りたことがあった。

この会社に滞在している間にも社員の方がボックスに入っている物品を持ち帰っている場面を見たこともある。

 

当日、時間通りに取引先に着きオフィスに通された。

この日のこの時間に私が行くということを3か月前から知っているにもかかわらず、

昨年粗品で渡したわが社の社名入りの手帳がお持ち帰りボックスに入っていた。

しかも一番上に重ねられていた。

この光景を見た時に怒りとか悲しみといった感情は湧き上がってこず、

ただ単純に「なんでだろう?」と思った。

私が来るのは1年の中で今日明日の2日間だけ、

なぜその2日間だけでもこのボックスから他の場所に隠しておかなかったのか?

他の場所じゃなくてもボックスの下の方に置いておくことは出来なかったのか?

丸見えも良い所である。

これだったら、わが社の粗品が必要ないものだということを面と向かって言われた方がまだ良かった。

 

そして何だったら今年の手帳も今日持ってきてしまっている。

去年、担当の方に渡したら「これ私が個人的に使いたいぐらいですよ」なんて言ってたから今年は2個持ってきた。

会社用と担当者さん用だ。

 

二つとも担当者さんに渡さずにダイレクトでお持ち帰りボックスに入れてやろうかとも思った。

「毎年恒例の粗品、先にここ置いときますね」なんて言いながら。

それかお持ち帰りボックスから「どなたでもっていうのは、私もいいんですか?じゃあこれ貰っていいですか?」と言いながら去年の手帳を貰って帰ろうかとも思った。

 

正直、粗品は要らないと思う。

私だって社名入りの手帳を使うか?と聞かれたら、おそらく使わないだろう。

しかしこういうものは品ではなく気持ちなんだとも思う。

「つまらないものですが良ければどうぞ」この言葉にすべてが込められている。

 

渡す方は
「要らないものかもしれないけど、いつもお世話になっている感謝の気持ちとしてお渡しします」

貰う方は

「正直、要らないものですけど、こちらこそいつもお世話になっております。ありがたく頂戴します」

そして貰った方が今度は渡す方となり感謝の気持ちが循環していく。

物は要らなくても気持ちをありがたく頂戴する。

日本人の美徳である「奥ゆかしさ」という文化はこうやって形成されてきたのだろう。

しかしこの「奥ゆかしさ」は今回のような悲劇を生み出す。

 

これ以上、悲劇を生み出さないためにも粗品は要らないと言ってくれ。