「パーフェクトワールド」と「わたし、定時で帰ります」を見ていた妻がキレてる。

今期も妻は元気にドラマを毎日録画しては消化する日々を送っていて、

入れ込み具合や見逃しのケア等の視聴への熱量から見るに、
パーフェクトワールド」と「わたし、定時で帰ります」が妻的にヒットしているようだ。

僕も隣で妻と一緒になって見ているのですが、最終回直前でこの2つのドラマが共通して主人公たちの婚約破棄という展開を描いている。

 

なんちゅうことをドラマでやってるんだと頭を抱えそうになる。

ドラマが視聴している人に与える影響は結構デカい。

たかがドラマでって思う人もいるだろうけど、

キムタクが美容師の役をやれば美容師を志望する人が増えたなんてこともあり。

将来の自分の職業なんていう大事なことをその時流行ったドラマで動機づけされたりする。

昼顔が流行った時も、何というか不倫することもありじゃない?と思う人がいたそうだ。

 

このようにドラマに影響されて実際に行動を起こす人は一定数いる。

とすれば、今回のドラマに影響されて「本当の愛のためなら婚約破棄もオッケー」みたいに思っちゃう人がいないか心配だ。

 

いやいや、ドラマだから。フィクションだから。

 

そりゃドラマとして「パーフェクトワールド」だったら松坂桃里と山本美月が、「わたし、定時で帰ります」だったら向井理吉高由里子がくっついた方が収まりがいいのは分かるよ。

でも最終回が近いからって結婚しようとしてる2人を駆け足で別れさせて、そっからくっつけてって人間関係ってそんなチープなもんかね?

両親に挨拶したり、式場選んだり、指輪買ったり、着実に結婚に向かっているタイミングで婚約破棄とかマジで地獄見るからやめとけ。

 

パーフェクトワールドの来週予告では家族や周囲の人間と衝突するシーンが流れてたけど、現実だったらあんなもんじゃすまないから。

慰謝料も発生するから。

 

と僕がドラマに対してツッコんでいたら、

妻は「でも松坂桃李が相手やったら婚約破棄してもしょうがないわー」と高らかに言っていた。僕が横にいるのに。

松坂桃李が好きだからってずいぶん甘口な裁定。

その後も「瀬戸康史こんなにいい人やのに報われなさすぎやろ」って笑ったり「もーごちゃごちゃ色んなこと起こらんとみんな幸せになってほしい―」と叫びだす始末。

なんて良い視聴者なんだ。「パーフェクトワールド」を思い切り堪能している。

 

しかし「わたし、定時で帰ります」で中丸君が急に吉高由里子に「君と結婚できない」と言ったのを見た時、妻は烈火の如くキレていた。

「このタイミングで?おいおい中丸君それはアカンって。式場見たりしてたやん、最悪。おい由里子、ケツの毛一本残さずむしったれ、指輪も返すな、もろとけもろとけ」

妻さん…?ケツ…の毛…ですか?

 

松坂桃李と中丸君のこの差よ。

どう違うのか妻に聞いてみたら
「松坂桃里はアリやけど中丸君はアカンやろ。だって中丸君やで?」と何とも辛口な裁定。

誠実そうなのが中丸君の売りなのに、それすらないとかただのボイパ野郎やん。

と妻は言いたい放題言って、颯爽と風呂に入っていきました。

妻は嵐のように去っていってしまい中丸君のフォローをできなかったので、ここでしておきます。

 

中丸君ってケツの毛一本もなさそう。

正論を口にしすぎる奴は嫌われる。

せい‐ろん【正論】
道理にかなった正しい意見や議論。

 

実にいい言葉だ。間違ったことよりも正しいことを説くことは奨励されるべきである。

しかし、こと対人関係において正論ばかり説くことが正論ではない場面は多々ある。

 

僕の背中が荒れていることを妻に指摘された。

元々、僕は肌があまり強い方ではなく、加えて梅雨の時期は湿気や汗の影響でどうしても肌が荒れてしまう。

お風呂上りはほてった体温で肌が赤みをもつため、より荒れている状態を強調させて見せてしまう。

それを妻が見つけ、肌荒れを指摘されたわけだ。

 

「皮膚科に行って来たら?」

「前にも言ったけど、ちゃんと皮膚科に通ってる?」

「継続して通わないと意味ないからね」

「今月中に行くこと。いい?」

「心配して言ってあげてるんだからね」

 

まったくもって正論だ。ぐうの音も出ない。

 

迅速に継続的に治療にあたることは医学的に正しいことだし、

妻として夫の健康状態を心配することは倫理的・人道的に正しいことだ。

 

一方、僕が皮膚科に行かない理由は一つ。

面倒くさいから。

行った方がいいって分かっているけど出来ない。

 

このひと幕を見て、妻を礼賛しない人はいないだろう。

だって正論だから。

このひと幕を見て、僕を礼賛する人はいないだろう。

だって正論じゃないから。

 

しかし人間、合理的な行動ばかりじゃないだろう?

「健康に悪いと分かっているけど、タバコも深酒もやめられない」だろう?

「毎日コツコツやればいいって分かっているけど、ギリギリまで課題を消化しない」だろう?

「睡眠は大事だって分かっているけど、夜更かしして海外ドラマを見てしまう」だろう?

「早く通院した方がいいって分かっているけど、面倒だから皮膚科に行かない」のもそういうことだ。

 

じゃあ今度は僕が妻に言ってみようか?

「毎日、朝晩にマウントレーニアを飲んでいるけど、健康のために糖質の高い飲み物はやめた方がいいよ」

「毎晩ソファーで電気とテレビを点けっぱなしにして寝てるけど、質の良い睡眠のためにやめた方がいいよ」

「歯を磨かずに寝てしまう事があるけど、健康な歯を維持するためにやめた方がいいよ」

「継続してやめないと意味ないからね」

「今月中にやめること。いい?」

「心配して言ってあげてるんだからね」

 

どうだろう?

僕を礼賛してくれるでしょう?だって正論なんだから。

・・・。

 

 

僕が妻にこれを言ってこなかったのは、人間は合理的なことばかりじゃないって知ってるから。

こと対人関係において正論で相手の行動や思考を制限するってことは、同じようにされても仕方がないってことだから。

そしてお互いが制限し合ったらとっても窮屈だから。そんな家族にしたくないから。


まあ全部言い訳だよ。

面倒くさいから皮膚科に行きたくないけど、

行かなかったらもっと面倒くさいことになるから、皮膚科に行ってきます。

エスカイヤクラブは最高

エスカイヤクラブに行ってきた。

こういうお店はバブルの時代に流行り、そして一気に廃れたが
エスカイヤクラブは未だに残っている。

時代の盛衰を生き抜く答えがここにあったように感じたわ。

 

エスカイヤクラブの入り口には会員制のお店だから一見さんは入るな。

あと、みだらな格好のやつも入るなと書いてあった。

 

みだらな心を持った俺は入っていいのかと逡巡したが迷いを振り切り、入った。

 

だって早くバニーガールを見たいから。

そう、このエスカイヤはバニーガールが給仕をしてくれるお店だ。

エデンと言い変えてもいい。

 

入ってすぐにバニーガールが2羽、もとい2人、僕を出迎えてくれた。

その非日常的な光景に一瞬鼻の下が伸びかけたが、バニーガールの横には屈強な黒服が一人。おっとここにも嬉しくない方の非日常が。

ちょうど日本ラグビー代表の稲垣啓太選手をスキンヘッドにしたルックスだった。

 

提供される料理よりも美味しそうなバニーガールのお尻を一撫でしようとした瞬間、こちらに向けられた殺気に気付く。

スキンヘッド稲垣だ。

違います!お尻に付いたフワフワを!このフワフワを触ろうとしただけなんですぅ!!

こっちにゆっくり向かってこないでぇ!

「店のルールを破れば死」そう思わせるには十分だった。

 

しかし死を感じたはずなのに人間というのは不思議なものでバニーガールを見るとすぐにそれを忘れてしまう。

 

おいおいなんだねその格好は。

そのハイのレッグの角度は一体何だね?

二等辺三角形の底角よりも鋭角じゃないか(どれくらいの角度か分かるかな?)

 

バニースーツの胸元を抉るようなその切れ込みは何だね。

元広島の黒田博樹投手のシュートでも投げ込まれたのかね?

エスカイヤクラブの創業者は男のスケベ心を熟知している。

 

これこそまさにカツカレー理論だよ。

トンカツ=うまい

カレー=うまい

じゃあカレーにトンカツのせたらスーパーうまいじゃん。

バカの発想だけど、理に適ってる。

それと同じだよ。

 

ウサギ=カワイイ

女の子=カワイイ

じゃあ女の子にウサギの格好させたらスーパーカワイイってなるでしょ?

 

え?間違ってる?

多分、創業者も銀行に借り入れに行く時にまったく同じセリフ言ったと思う。

 

間違ってますか?融資担当者さん?

女の子+ウサギ。カワイイですよね?じゃあお金貸しますよね。

最強の借入術。

 

ごちゃごちゃ売上見込がどうとか、原価がどうとか言ってて馬鹿らしくないか?

チマチマ書いた事業計画書なんか捨てちまえ。

 

私の店にはバニーガールがいます。じゃあ融資しますよね?どうですか?

それだけ。

融資を受けたい人はエスカイヤクラブの創業者に学ぼう。

真の差別化とはこういうことだ。

 

あとこの店の良い所は

バニーガールが安易に語尾に「ぴょん」をつけないこと。これがいい。

そもそもウサギには声帯がないため犬や猫のように鳴くことがない。

当然ぴょんなんて音はウサギから出てくることはないのだ。

 

しかしどうだろう彼氏にコスプレを強要され「語尾にぴょんってつけて喋ってよ」と言われるがままに

「そんなの恥ずかしいぴょん」なんて言ってしまった人も多いのではないだろうか。

 

一方エスカイヤクラブのバニーガールはぴょんの安売りをしない。

バニーの格好をしているといってもあくまで主体は人間であるワタシ。

体はバニーでも心まで許したわけじゃないという矜持があるのだろう。

 

と思っていたらそのお店で一番のベテランのバニーガールがぴょんぴょん言ってたわ。

言ってくれって頼んでもないのにずっと言ってた。

だからウサギには声帯がねえっつってんだろ!

 

ここまで書いて、そんなことはどうでもいいからバニーガールの写真を早く貼り付けなさいと思っている人も多いだろう。

 

しかし申し訳ない。それは出来ないんだ。

やらないんじゃなくて出来ない。

 

バニーガールと写真は撮った。

でも撮る時にあの黒服が「撮った写真をSNSに上げたらダメですよ」って言ってきた。

「もしあげたらどうなるんですか?」と聞くと

「上げたことはすぐに分かりますよ。その後どうなるかは…」と今まで仏頂面だった黒服がニヤリと口角を上げた。

まるで「私はそっちの方が楽しめるからいいんですけどねえ」とでも言わんばかりの表情だった。

酔いは一気にさめ、引きつった表情でバニーガールと写真を撮った。

バニーガールは暢気に「SNSに上げちゃだめですよぉー、一人で見て楽しんでくださいねぇー」と言ってきた。

家に帰ってその写真を見返したが、とてもじゃないが楽しめる気分ではなかった。

分かっていたことだが、31歳のおじさんがパプリカを踊ると、さすがにもう余裕

何度目かの結婚式ラッシュが僕の周りで起こっているようで、また友人が結婚をする。

 

結婚の報告を受けた数分後に、その結婚式の余興のダンスグループを作成しているあたり手慣れたものだ。

 

あーあいつ結婚するんや、じゃあ余興のダンス覚えないとな。

と一瞬で思考するあたり僕の意識もかなり改革があったようで驚いている。

まだその友人が式に呼んでくれるかも分からないし、余興が必要かも分からないというのに。

 

前回のUSAを踊って分かったことだが、何が何でもダンスでお祝いしてやろうという、ある種の意地のようなものがある。

以前に別の友人の結婚式の余興でディズニーのhippity hoppity springtimeで余興をしようかという話になったことがあった。

その友人の披露宴では僕たちとは別の友人グループが余興をするから僕達の余興は必要ないと言われ、

二次会は余興無しだったので、お祝いダンスムービーをスクリーンで上映しようとしたが、いかんせんディズニーの曲だったので式場から曲の権利の買取が無いと流せませんと言われたのにもへこたれず、

最終的にそのダンスムービーを家で観るようにDVDに焼いて渡すという執念。

 

なんていうかダンスって丁度いいんですよね。

結婚式の余興で踊るぐらいだったら特別な技術も道具も要らないし、それなりの努力で、それなりに見えるから。

それなりに見えるがゆえに、見せたくなっちゃうから。

ダンスやってるやつって信号待ちとか遊園地でアトラクションに並んでるときに隙あらば踊っちゃうのが良い例だよ。

 

とりあえずパプリカのダンスの練習をしておいて損はないってことでYoutubeでパプリカのダンス動画を探してヒットしたのがこれ。

2020応援ソング「パプリカ」ダンスを小学生が踊ってみた☆

 

この動画を見ながらダンスの練習をしたのだが、
数々のダンスを踊ってきた僕にとって、この程度の難易度のダンスはものの30分ほどで覚えられてしまい、拍子抜けしたほどだ。

 

ダンスの最終確認をし、細かい動きの微調整を終え、Youtubeを閉じようとしたが何故かこの動画を見続けてしまう!

ダンスの練習という目的以外でこの動画を視聴している自分に気づいてしまった。

なんだ…なんなんだこの気持ちは…。

特に前列向かって左側の白い服の女児から目を離すことが出来ない!

ああ…!そんなハツラツとダンスを踊ってるのを見せられたら!

 

僕のパプリカの花が咲いて晴れた空に種を蒔いちゃうぅう!!

 

こんな僕でも東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会を応援しています。

趣味:読書から話なんて広がんねえよ。

読書っていいですよね。

 

自分では体験できない事を文字を通して疑似体験できますし、

読んでいるときの没入感とか読み終わった後の達成感や余韻は何とも言えないポジティブな感覚ですよね。

 

僕もよく本を読むんですが、読書っていうのは心を満たしてくれる一方で、

趣味:読書ってだけで人と共通点を持っていると感じることがどうしても出来ないんですよね。

 

これが趣味:お菓子作りとかサッカーとかだったら、とても分かりやすい共通点になるんですけどね。

 

「この間、こんなお菓子作ったの」

「わーすごい私もお菓子作るの好きなの。作り方教えて?」

「いいよ、じゃあ連絡先教えて。レシピ送るよ」

趣味をきっかけにした、何てスムーズな人間関係の導入だろう。

今後、この二人が仲良くなるかどうかは置いておいて、

人間関係において共通点を持っていることはその後の親密度にかなり影響を与える。

 

しかしこれが趣味:読書だとそうもいかない。

「趣味が読書ってどんな本を読むの?」

高嶋哲夫のM8」

「ふーん…」

「…」

大体こうなっちゃう。広がりようがない。

 

それか
「趣味が読書ってどんな本を読むの?」

太宰治人間失格

「あー私も読んだよそれ、面白いよね」

「特に『用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだ』っていうあの一文が好きだわ。モテない作家じゃ書けない文章だと思うわ」

「ふーん…」

「…」

こうなっちゃう。

 

この世に存在する本ってあまりに数が膨大過ぎて、自分が読んだ本を相手が読んでいるとも限らないし、

読書って誰にでも趣味に出来るというハードルの低さ故に、趣味への没入度にギャップが生まれるし、その人の嗜好の濃淡がはっきりと出てしまう。

 

だからこそ趣味を語るならもっと細かく分ければいいのにって思う。

趣味における読書はカテゴリーで言えばかなりの大分類に該当していて、

「趣味はスポーツです」って言うのと同じくらいざっくりしてる。

スポーツってどういうこと?種目は?見る方?やる方?グッズをコレクトする方?

これらをすべてすっ飛ばして趣味:読書って言ってしまってるのが現状。

 

だからこそもっと細部を表現するために、
趣味:ミステリー小説読書とか自己啓発本読書とか教典読書とかファッション雑誌読書とか漫画読書とかまで言及していいんじゃない?

 

それと趣味が読書の人は同じ読書が好きな人に対してもうちょっと寛容になろうぜ。

司馬遼太郎三島由紀夫も読んでなくてもいいじゃねえか。

伊坂幸太郎東野圭吾も読んでなくてもいいじゃねえか。

ドラマとか映画きっかけで市川拓司と片山恭一を好きになってもいいじゃねえか。

ミステリー作家と言えば乾くるみって言ってもいいじゃねえか。

星新一ショートショートの内容言えるのにタイトルが出てこないってなってもいいじゃねえか。

赤川次郎の小説に出てくる地味な女が乱れる描写に下半身がふっくらしてもいいじゃねえか。

これ全部僕だわ。

 

ちなみに読書をする人と話す時に盛り上がるのは

好きな本ベスト3とかじゃなくて、

読んで退屈だった本とか二度と読みたくない本とかネガティブな内容の話をする方が盛り上がる。

 

上に出てきた高嶋哲夫のM8が良い例で、

僕が唯一最後まで読み切れなかった本だ。

理由は専門用語多すぎるから。

「東京大地震が起こった時、大切な人を守れますか…?」みたいな恋愛系をほのめかす煽りだったのに、

読んでみたら地震の専門書かよってレベルの単語の応酬。気軽に読めねえよ。

 

ところで僕は旅行をする時、移動時間中に退屈しないために本を持っていくのだが、

旅行先で仲良くなった人や同行した友人にその持って行った本を貸すことがよくある。

 

それは移動時間に本を読んでたという話から、どんな本を読んでたかを聞かれ、実物の本を手に取って見せた際に、

読みたかったら貸すよと言って結構気軽に貸してしまう。

でも本当は「この本を読んで僕のこと、僕との旅のことを思い出してほしい」っていう願いを込めて貸す。

そうすればその人が何度もその本を読み返すたびに、僕のことを忘れずに思い出してくれるでしょう?

っていうカッコイイ理由を今思いついたので書いておきます。

 

そんなことはいいから一刻も早く返しに来てくれ。

高嶋哲夫のM8じゃあるまいし読むのに何年かかってんだ。

 

M8 (集英社文庫)

M8 (集英社文庫)

 

さわって作って食べる絵本

www.makuake.com

これすごい面白い。
絵本の中で練り切りを作るストーリーが展開されていて、実際に絵本に登場した練り切りを作れるみたいだ。

絵本の思い出って結構強烈に残ってませんか?
僕は30年前に読んだ絵本を今でも覚えています。
お気に入りだった絵本は今でも実家に置いてあって、帰省した時に見返すととても懐かしい気持ちになります。

特に「ぐりとぐら」シリーズは大好きで、あのフライパンいっぱいのカステラは一度でいいから食べてみたいと今でも思っています。

そんな夢がこの絵本では叶うんですよね。

絵本で見るだけだったお菓子を実際に自分で作って食べられる。
そんな体験ができるというのは想像しただけでワクワクしてきます。

しかも練り切りって家じゃ普通は作らないものですよね。
クッキーとかホットケーキとかじゃなく中々作る機会のないお菓子作りを体験できるって最高。

多分、最初は上手に作れないんだろうけど、それもまた楽しいと思います。
「見本と全然違うやん」とか「不格好でも一生懸命作ったから美味しいね」なんて笑いながら、次に作る時は前回よりも上手くなっていったりして。
そして時が経って絵本を見返したときに練り切りを作った思い出が蘇ってきて盛り上がったり。

想像するだけで素敵ですよね。

絵本の中だけの疑似体験を実体験に替えてくれる素敵な絵本。
僕も購入させてもらいました。手元に届くのが楽しみです。
妻の甥っ子にプレゼントしよう。僕も一緒に作るように追加で練り切りも買ってみよう。

直感的な操作で行う筍のあく抜き

今の時期が旬という事で生の筍を貰ったのだが、家に持って帰ってはたと下ごしらえの手が止まる。

どこから手を付けていいか分からない。

とりあえず頂いた筍が入っていた箱の中にある説明書を見る。

その説明書がまた分からないのなんの。

10cm×10cmぐらいのメモ用紙にあく抜きの工程が書いてあるのだが、その説明が薄い。


①筍を水洗いして表面の土を洗い流す。

ここまではいい。

しかし初めて生の筍を触ったが、意外と毛の感触が強い。

皮の部分は竹のように固くツルツルした感触かと思ったが細かくて固い毛がびっしりと生えている。

手で撫でるとその一本一本の毛の固さをしっかりと感じられるぐらい。


②稈鞘が取れそうなら軽く取り根本を薄く削ぐ

待て待て待て。

常用じゃない漢字を出すんじゃない。ググろうとしても読み方も分からないから打ち込みようがない。

「のぎへんに早いみたいなやつ」とググるとようやく「稈」が出てくる。

筍のあく抜きの工程の中で今のところ一番これに労力を使っている。


調べを進めると「稈鞘」は筍の皮のことらしい。じゃあ筍の皮が取れそうなら軽く取りと書けばいいだろうに。

そもそも用意した説明書が小さい故に「筍の皮」だと3文字の所を「稈鞘」とすることにより1文字節約している。


それに加え、料理を普段しない人や筍のことを全く分かっていない人に「取れそうなら軽く取り」こういう曖昧な説明は勘弁してほしい。

眼前にある筍の皮が取れそうかどうかと聞かれたら、

「一度取ってしまうと取り返しが効かないので、ここは取らずに保留するべきでは?」と答えるインテリな自分もいれば、

「パワーを込めていいのなら全部とれますが?」と答えるマッチョな自分もいる。


今時の筍はiPhoneのように直感的な操作を可能にしているようだ。


③筍の先を斜めに切り落とし、筍に切り込みを入れる。先は深く、根元は浅く。

また出たよ。iPhoneの直感的な操作。

しかも今度は説明文も何だかおしゃれ。倒置法まで用いられている。

「先は深く、根元は浅く」とか「花は桜、君は美し」みたいなこと言いやがって。

Appleの前衛的感覚といきものがかりのアート性を併せ持つ筍がここにある。


④筍が浸るぐらいの水を鍋に入れ、米糠・鷹の爪を入れて40分ほど煮る

この工程にたどり着くまでにもう既にぐったりだ。

ここも「筍がいい感じになるぐらい水を入れ、グッドなタイミングまで煮る」みたいな直感的操作を求められたらどうしようかとヒヤヒヤしていた。


一応、説明書と並行して母に筍のあく抜きの方法を電話で聞いたのだがそれも当てにならなかった。


僕「筍の先を斜めに切るってどっち向きに切ったらいいん?」

母「こっち向きに切るんやろうなって方向に切ったらええねん」

僕「は?」

母「こう切ったら収まりがええなあって方向あるやろ?そっち」


僕「切り込みいれるってどれぐらい?」

母「先を切り落としたら中が年輪みたいになってるの見えるやろ?その真ん中ぐらいまで切り込みを入れんねん」

僕「ほうほう、根元の方は?」

母「すぅっとでええよ」

僕「は?」

母「切り過ぎでも、切らなすぎでもない煮た後に剥きやすいやろうなって感じで」


まさか母までiPhoneの直感的な操作に侵されていたとは。Appleの影響力はとどまるところを知らないようだ。


今までの情報を総合して筍を直感的にあく抜きしてみた。

その結果がこれなんだが、どう思う?

どうやら直感的にあく抜きできてしまう故に直感的な説明になってしまうようだ。

直感的に調理が成功すると自らの料理センスを確認できたみたいでとても満足感と達成感がある。

筍のあく抜きは大体でいいんだ。


一方、妻はyoutubeで筍のあく抜きの動画を見た。驚異的な速さであく抜きを終わらせていた。