お中元・お歳暮は要らないと言わせてくれ
以前にこういう記事を書いた。
粗品を渡す側の意見として、受け取る方は要らないものは要らないとはっきり言ってほしい。
という主旨で書いたものだ。
今回は逆の立場。
お中元・お歳暮を貰う側の意見として要らないものは要らないとはっきり言わせてほしい。
という主旨で書かせてもらう。
私はお中元・お歳暮をよく貰う方だと思う。
毎年、お中元・お歳暮の度にそれぞれ20個ほど品物を貰う。
もちろん、それと同じだけの数を送ってくれた方達にお中元・お歳暮として品物を送っている。
お中元・お歳暮を貰うことはとてもありがたい。
わざわざ私なんかのために品物を選んで購入し送ってくれることは本当にありがたい事なのだが、要らないものは本当に要らない。
こういうことを言うと
「せっかく送ってくれたものを無下にするなんて贅沢だ」
という声も聞こえてくるが、
それでも要らないものは要らない。
「アフリカの子供たちは今この瞬間も食糧難で餓死しているんだから、食べ物を残すな」という教育をされたがこれはおかしい。
「そのアフリカの子供たちもお腹いっぱいになったら食べ物残すやろ」と言っていました。
それに近い感覚だ。
桐の箱に入った36束のそうめんが3日続けて届いた時の気持ちが分かるか?
ビール2ダースと日本酒3瓶に玄関を占拠された気持ちが分かるか?
朝ごはんがとらやの羊羹で昼ごはんがアンリシャルパンティエの焼き菓子の日が3日続いた時の気持ちが分かるか?
賞味期限が一週間しかない、人間の頭部よりも大きいバームクーヘンをどの日の何ご飯にするか決めなくてはならない気持ちが分かるか?
貰ったものを賞味期限内に食べられずに捨ててしまう時の気持ちが分かるか?
そして何より、これらのものを貰う時に感謝することを強要される気持ちが分かるか?
贅沢なことを言っているのは分かっている。
しかし何事にも限度がある。
だからこちらの言い分を言わせてもらうと
「こちらが消費したいタイミングでこちらの消費したいものを送ってくれ」
こういう言い方しかできない。
お中元・お歳暮とは本来、相手に喜んでもらおう。
お世話になった気持ちを伝えたい。こういうポジティブな気持ちに突き動かされて行うものであるが、
相手のことを推し量る配慮が欠けているのではないだろうか。
巨大バームクーヘンを食の細い30歳の夫婦が1週間で食べきれると本当に思ってお歳暮を送ったのかと聞きたくなる。
それともお中元・お歳暮という慣習が形骸化し、ただ単に時期が来たからいつも通りの品物を送っておこう。
そんなおざなりな気持ちがこういった悲劇を生み出しているのではないだろうか。
ネックになっているのはすべて賞味期限。
例えば巨大バームクーヘンが賞味期限のない、痛むことも腐ることもない夢のバームクーヘンだった場合、
私はここまでの激情を持て余したりしなかっただろう。
いつまでも新鮮なままであれば、すぐには食べきれなくても、少しずつ食べ進めていけばいずれ食べきることが出来るだろう。
賞味期限という縛りが無くなるだけで忌々しい巨大バームクーヘンも「こちらが消費したいタイミングでこちらの消費したいもの」になる。
しかし現実は残酷で、バームクーヘンは痛むし腐る。
食べ物は賞味期限があったり、そもそも口に合わないことだってある。
お中元・お歳暮にあふれた生活を30年送っている私の母の夢は
「スーパーに売っている冷や麦を買って食べること」だ。
買えばいいと思うがスーパーの冷や麦を前にすると、
「同じような食べ物のそうめんが家に沢山あるのにわざわざ買うのもなあ…」と買うことが憚られてしまうそうだ。
母は消費しきれないそうめんの山を見ながら、いつか来るかもしれない日に夢を馳せている。
こんなもの悲劇でしかない。
それならと最近はギフトカタログを送っていただくことがある。
これなら腐らないし、自分が欲しいものを自分で決めることが出来る。
しかしこれも厄介なことに期限がある。
大体、カタログ購入から3ヶ月とか4ヶ月以内に希望商品を決めて付属の葉書を郵送しなければならない。
その期限を過ぎてしまうとカタログギフトの効力を失ってしまう。
しかもこのカタログギフト、絶妙に選びづらいラインナップなのだ。
「どれもあればまあ嬉しいけど、別になくてもいい」ような商品を上手くピックアップしている気がしてならない。
そうこうしているうちに、期限の3・4ヶ月が過ぎ去ってしまう。時間なんてあっという間だ。
第一印象でスパッと決めてしまわないといけないのがネックだ。
結局、商品券が一番ありがたいと思ってしまう。
期限がなく、場所も取らない。
先程から言っている「消費したいタイミングで消費したいもの」に合致する。
日本人の美徳である品物を渡す時の奥ゆかしさみたいなものは損なわれてしまい、なんだか味気の無い気もするが貰う側本位に考えるとこれが一番のように思う。
そう思っていたが最近、少し気になるサービスが出てきた。
西野亮廣さんが打ち出したレターポットというものだ。
品物ではなく1文字5円の文字を送るというサービスだ。
商品券にはない奥ゆかしさがある。
なによりレターポット内で自分がもらった文字の数を他人が見られるというところがミソだと思う。
道を歩いていて、お中元・お歳暮をたくさん貰うほど他人から感謝されているおじさんとそうではないおじさんの見分けはつかないが、レターポット内では一目瞭然だ。
文字に価値がある世界で、たくさんの文字を貰う人=たくさんの信頼と感謝を得る人として、その人を知らない他人から一定の評価を得ることが出来る。
赤の他人から信頼のある人だと認知されるなんて普通の暮らしの中では中々ない事だ。
twitterやFacebook等のSNSのフォロワー数などを元に影響力の大きさを測定するソーシャルスコアリングというシステムがある。
そのソーシャルスコアリングの数値により採用する「インフルエンサー採用」という新たな採用基準を設けている企業も出てきている。
もし仮にお中元・お歳暮、年賀状や暑中見舞い等の時勢に取り残されようとしている慣習にレターパックが取って代わる未来が来るとしたら、
レターパックが精度の高いソーシャルスコアリングとして機能する日が来るのかもしれない。